全国仲人連合会の創立者、宮原嘉寿は、大正十三年に熊本県で生まれました。太平洋戦争勃発後、最後の徴収兵として戦地に赴き、終戦を迎えたのは二十一歳のとき。その後しばらくシベリアに抑留されました。
シベリアから帰還後、熊本から上京し、最初は弁護士の先生の書生となって弁護士を目指したようです。しかし、弁護士という仕事は、和解させて途中で決着がつくことが多いため、双方それぞれに妥協が求められます。結局依頼者は全面的には納得できないまま弁護士に費用を支払うことになり、父にはあまり良い職業には見えなかったようです。その後、弁護士になることをあきらめました。
当時は、田舎の中学校で校長をしていた叔父の紹介で、中学を卒業した若者が大勢、東京に集まってきました。父はそうした人たちを雇い、車上でクリーニングする仕事を思い付きます。ひと口に「クリーニング業」と言いますが、いったん父が手掛けるとなるとそれまでの「クリーニング業」の概念を一新させるような新しいアイディアを次々と思いつき、それを実現していきました。まず、車内でクリーニングできる車を大手電機メーカーと自動車製造会社とで造ってもらい、特許をとりました。そして、それに乗ってそのころたくさん建てられた団地を回って、その場ですぐにクリーニングできることを売り物に、販路を広げていきました。最初の一枚は無料で引き受け、きちんとそれを仕上げてみせると、一気にお客さんが増えたそうです。
月末集金が当り前だった時代に、回数券を思い付いたのもそのころです。当時のクリーニング業は、お米や醤油などと同じように、月末に精算する方法をとっていたのですが、お金を回収することができなくて店がうまくいかなくなるということも多々あったようです。そこで、たとえばワイシャツ十枚分の料金で、十一枚分の回数券を発券するという前金制度を考えつき、事業を拡大していきました。車に乗ってどんどん販路を広げていくわけですから、他のクリーニング店にとっては、自分の領分を侵されるのではないかといった危機感から「子どもを誘拐するぞ」といった脅しや嫌がらせなどもされたようですが、父は気にしませんでした。
現在、クリーニング店のほとんどが前金制をとっていますが、父はそれを回数券という形で先取りして始めていたというわけです。小さな道に入っていって各家庭を回っていたため、父は抜け道や路地など、どんなに小さな道でもたいへん詳しく、よく知っていました。
ところが、高度成長期が始まり、高校進学率が高まるにつれ、地方から上京してくる青年たちは「金の卵」と呼ばれるようになり、これまでのような人手のやりくりがむずかしくなってきました。加えてモータリゼーション化で道路を走る車の数も増え、渋滞に巻き込まれることが多くなって、仕事の効率も悪くなっていきました。
昭和四十年代は、高度成長期であると同時に、日本の人々の生活スタイルも、結婚に対する考え方も大きな変化を遂げた時代です。恋愛結婚の比率がお見合い結婚を上回るようになったのもそのころでした。
当時父の周辺には、叔父をはじめとして、年頃となった教え子の写真をたくさん預かっていた元学校長や、政財界の方がいました。
現在もまだ残っていますが、当時のお見合いは近所の方や親戚のボランティアで行われていて、成功すれば謝礼という形でお礼金をはらうというのが一般的でした。仲人役をしていた人たちの家に、写真館で高いお金をはらって撮影した大きなお見合い写真が積まれているのを見て、父はこれらの写真を小さくし、情報を小冊子に掲載してみんなに情報がゆきわたるようにすればいいのではないだろうかと思い付きました。時代を読みとり、新たなアイディアを得ると、それをすぐに実行に移すのが父の性格です。余裕を残したままクリーニング業には見切りをつけ、「相手を自由に選べる時代だからこそ、明るい良心的な結婚相談所が必要」という考えに、政財界や、元皇族の方など多方面からの賛同を得て、結婚相談所を組織化する事業に乗りだしました。クリーニング業時代に各家庭を回る際、「うちの息子(娘)に誰か良い人がいないかしら」とたびたび相談を受けていたこと、父自身、自分の会社の従業員の仲人をすることが多かったことも、この仕事は、いずれ世の人々に求められるようになると感じるきっかけになったようです。
もちろん親戚縁者はこぞって反対しました。そんなものに値段をつけるのはおかしい、うまくいったときはまだいいが、何かがあってその縁談が壊れてしまったら実も蓋もないじゃないかと言うのです。でも、少々へそ曲がりなところがある父は、人がやらないことを常にやろうとしていましたから、逆にビジネスチャンスだと捉え、誰もやらないなら自分がやってやろうと思ったようです。まだ結婚相談所といった概念がまったくなかった昭和四十五年、父が四十五歳のときのことでした。
元校長先生たちを仲間に、持っていた情報をデータ化し、最初は「全国結婚相談所連合会」という名前で立ち上げ、その後「全国仲人連合会」と改名しました。
改名した理由は、そのころ「結婚相談所」の名をかたって詐欺を働いた人が新聞に掲載され、その肩書きが「某結婚相談所所長」となっているのを見て、読んだ人はうちの会と関係あると思うかもしれないという危倶を父が抱いたからです。でも、「結婚相談所」ではなく「仲人」という言葉を社名に使えば、「某仲人」という表現はしませんから混同されることはありません。
現在の全国仲人連合会の基本的なシステムは、ほとんどこの時期にできあがりました。けれども、まだまだお見合いはボランティアという風潮が強かった時代に、全国一律の料金を徹底させることが、最初のうちはたいへんだったようです。当時は基本料金ではなく、基準料金というのを設けて、仲人さんの裁量にある程度はまかせなくては、地域によって慣習が違うこともあって仲人さんのなり手がありませんでした。しばらくはその方法でやっていたものの、連合会を名乗る以上、料金を一律にしなくては会員さんにとっても平等ではありません。そこで、二十年くらい前にきっちりと「基本料金」を設け、守れない仲人さんにはお辞めいただくという少々厳しい規定を設けました。
父は平等ということにこだわった人でした。お見合いをして結婚するという意味では、財産がある人でもない人でも、たどる道はまったくいっしょです。逆にいえば、平等という概念は実杜会ではなかなか見当たりませんが、私どもの会では貧富の差は関係なく、全国どこでも老若男女を問わない統一料金なのです。たとえ財産がない家に産まれた人でも、勉強して努力し、大学を卒業してきちんとした会社に入れば、ここでは評価され、相手に選ばれる確率も高くなります。
努力してきた人が選ばれるわけですから、チャンスは平等です。
仲人さんに対しても同じことが言えます。この仕事は年齢制限がありません。男女の差もありませんし、特別な技術も必要ありません。とかく年齢の若い人が有利になりがちな仕事が多いなかで、年齢の高さを経験の多さとして評価され、尊重される数少ない仕事と言えるのではないでしようか。
※現在「グリーン車コース」はありません。
大卒の男性を希望する女性のための「グリーン車コース」は、無類の旅行好きだった父が新幹線からヒントを得て作ったものです。「結婚という目的地に着くのが早くなるわけではない。時間は同じだけど、ただ着くまでのシートのサイズが違うだけなんだ」とよく言っていました。
父は大阪や名古屋で会議があるときには、私や兄を伴って行くことも多かったのですが、そのときには必ず「横に座るな、後ろに座れ」と言って私たちを横に座らせませんでした。隣に知らない人が座って、その人と話すのが楽しみなのです。横に人が座るとすぐに名刺を出してあいさつし、到着するまでその方との会話を楽しんでいました。
海外にも身軽に一人で行くことも多く、私に社長職を譲って会長になってからは「姿が見えないな」と思っていると、「今、中国にいる」と突然電話をかけてきて驚いたこともたびたびあります。戦時中は大連にいましたから、片言の中国語だけで会話を通じさせていたようです。しかも、海外へ旅行するときもいっさい宿泊先の予約を入れず、着いてから自分で交渉して気が向いたホテルに泊まっていました。「大丈夫、大丈夫」と言うのですが、あまりにも連絡がなく、そのままどこかで野垂れ死にしているんじゃないかと思ったことは、一度や二度ではありません。予定を決めずに気ままにあちこちを歩き回るのが好きだったのです。
国内もひんぱんに旅行していましたから、すぐにどこかに行けるよう、駅に近い立地に住むことを好みました。しかも「鍵一つで戸締まりできる」ということで、マンションが好きでした。ですから父の時代には、東京・大井町からすぐのマンション五部屋を連合会の総本部としていました。会員さんにしてみれば訪れた場所はマンションの一室にすぎませんから、本部に見えず「ここがほんとうに総本部なんですか?」とよく聞かれたものです。父はクリーニング業を経営していたときに、たくさんの不動産を持っていたものの、事業を整理するときに全部売ってしまっていた経験から、「あんなもの(不動産)は持っていても仕方ないよ」とよく言っていたものです。
晩年、足を患っていた父のために、マンションの一室を父の部屋とし、本部まで自分の足ですぐ行けるようにしていたのですが、父が亡くなった年に、言座の建物を取引先の銀行が譲ってくださることになり、全面的にリニューアルして、総本部は平成十二年末に引っ越しました。
父は新しいものが大好きでした。コンピュータがまだ普及していないころは、手作業でファイリングをしていましたが、その方法も工夫し「この方法が機械化されれば便利になるよ」とよく言っていました。理論的には、同じことをやっていたわけです。
そんな父ですから、日本にオフィスコンピュータが入ってきたときに、ずいぶん値段は高かったのですが、真っ先に取り入れました。当時はまだまだ情報処理も遅く、検索するにしても現在よりはるかに時間がかかりました。私も父といっしょにデータをインプットしたのを手伝った記憶があります。でも、コンピュータ化してからは、手作業より検索がずっと容易になり、業績もアツプしました。
けれども一方で、コンピュータを使った結婚情報型の大型産業が参人しはじめたのもそのころです。システムは私どもとは違うのですが、“結婚”を目的とするところは同じですから、一般の人には同じに見えます。加えて、大きな企業は資本がありますから、宣伝力があります。私どもの支部も東京から名古屋、大阪へと広がっていき、そのころには千五百を超えるようになっていましたが、大手の参入に危機感も持っていました。そこで入会金を下げるなど、大手に対抗する手段をとったのですが、これが裏目に出て一部の仲人さんが分派することになってしまいました。分派した仲人さんたちは別会社を作って「仲人連合会」という名をつけたのですが、これは類似商標ですからすぐに弁護士を通じて差し止めてもらいました。その後、別の名前で活動していらしたようですが、いつのまにか消滅してしまいました。
父はそういうときも強気でしたが、やはりこたえたのだと思います。その時に一気に白髪が増えました。でも、このときも「裏切るよりは、裏切られたほうがいい」と言っていて、これは父の持論でもありました。
大手が参入してきたのは悪いことばかりではありません。お見合いがビジネスとして一般的に広く認知され、それに対してお金を払うことに対しての抵抗感をなくしたわけですから、ある意味ではありがたかったのです。私自身、小学校のころ「お父さんは何の仕事をしているの?」と聞かれて、当時は説明するのがたいへんで、めんどうくさいと「情報サービス」と答えていたくらいです。今、私の子どもたちは学校で同じことを聞かれても「結婚相談所」と答えれば、それで通じます。
長い期間事業を続けていれば、良いこともあれば悪いこともあります。分裂した後はお陰さまで順調に業績は伸びていますが、一度こういう形でつまずいたことは、そこで学んだことも多く、長い目で見ると良かったと思います。
私には年が離れた兄と姉がいます。兄はコンピュータが得意でしたし、姉もタイプライターの時代から手伝うなど、家族総出で手伝っていました。私も運転手役や写真撮影など、学校時代からいろいろなことをやらされました。そうやっていろいろ経験させるときには、父は決して途中で助けません。たとえば、高校生くらいのときに「会議場を確保してこい」と言われ、交渉して確約をとってきたことがあります。ところが、父にそれを報告すると「どうして手付金を置いてこなかったのだ!」と怒るのです。「口約束だけではだめだ、お金を渡さなければ権利が派生しないだろう!」というのです。そこですぐに先方に改めて出向き、お金を渡してこなくてはなりませんでした。学生時代にはたいへんだと感じていましたが、そのときの経験が、今いろいろな形で役立っています。
父が考えていたことは、常に二十年くらい先をいっていたような気がします。インターネットについても、何年も前にその理論について話し、普及を予見していました。兄に、「これからぜったい鍼灸師が増えるから、免許をとれ」と言ったのも父で、兄はその言葉にしたがって、鍼灸師の免許をとりました。コンピュータ好きの兄に、彼の免許を生かして、たとえば胃が痛いときにはどこにお灸をすえたらいいのか、どこにツボがあるのかといったソフトを作れとも言っていました。実際、二十年後の現在、そういったソフトがすでに作られ、販売されているそうです。時には、先を見すぎて変わり者と思われていた節もありました。でも、私はたまに父が言っていたことを現在にあてはめて行動してみるとぴったりくるということを何度も経験してきました。常にいろいろな発想が頭をめぐっていた人だと、今になってつくづく思います。
私自身は、父が四十歳のときの子どもだったため、若いお父さんにあこがれて早くに結婚をしました。あまり深く考えずにした結婚でしたが、万一結婚せずに父が亡くなったら、私一人でいろいろなことを抱えることになり、たいへんだったと思います。家族というのはいちばん気を許せる空気みたいなものですが、やはりお金では買えない貴重な存在だと思います。
父のあとを継いで社長となったのは八年前。後を継ぐというのは、父にとって自分がやってきたことを息子が認めたと感じたようで、ずいぶん喜んでくれました。私に息子が産まれたときもたいそうな喜びようでした。自分の名を継ぐ息子のところに息子が生まれたというのは、男にとってある種の達成感があるのかもしれません。「息子と孫は違う」と言って、ペット用のひもを買ってきて私の息子につけ、近くのデパートに毎日のように連れていって遊ばせていたので、そのデパートで父のことを知らない人はいないくらいでした。
父は昔から「やるからには、百年続く仕事にしなくては意味がない」とよく言っていました。結局、父が考えたコンセプト、やり方が、多少形は変えても三十五年後の現在も生きていますし、まったく古びていません。孫の代までできること、親から子、子から孫へと続いても変わらないものを伝え願っていくという点では、父も、ここを訪れる会員さんの親御さんたちも共通のものを持っているのだと思います。
仲人さんたちからも、父は絶大な人気がありました。話し好きでしたから、その話を楽しみに定例会に出席なさっていた仲人さんもたくさんいらっしゃいます。集っているメンバーの雰囲気を読み取って、くだけた話から高尚な話まで臨機応変に水を飲みのみ話します。会が長くなり、そろそろみなさんが退屈したころに父が話すと、場を和らげ、会を盛り上げることができました。
今でも時々仲人さんたちから「そういえば、会長はこう言っていたわね」という声がたびたび聞かれ、父の言葉は仲人さんたちの中に生きているんだなあと感じることがあります。
いろいろなことに興味を持ち、先見の明があった父は、四十五歳でこの仕事を始めてからは寄り道せずにこの道一筋でした。弁護士をめざしていたときの実体験から、「弁護士の仕事は結局和解させてしまうから、どちらにも痛みが残ってあまり感謝されることはない。でも、結婚相談所は決まればみんなに喜ばれる仕事で、『寿』と書かれたお金をいただくことができる仕事というのはめったにないんだよ」とよく言っていました。その言葉は、父なりの経験から感じ取ってきたもので、そうした気持ちが原動力になって、連合会を業界最大規模の組織に成長させたのだと思います。
父は平成十二年に七十六歳で充実した生涯を終え、その年の五月に三十年以上にわたる功績に対し、紺綬褒章をいただきました。
私どもの会は、仲人というある意味では“古い”システムを中心に、これまで運営してきました。三十五年間そのシステムは基本的には変わっていません。経営についても、バブル景気のときも変わらなければ、現在の不況でもまったく同じです。新しいものをどんどん取り入れて手を広げていくという方法もあるでしょうが、私自身は変わらないものを長く続けていくというこれまでの方法でいいと思っています。
システムは変わらないものの、最近少し変化が見られるのは会員さんたちの志向です。バブル時代は、みんな都会志向で農家を希望する人は皆無でした。ところが、最近は田舎のほうがいい、自給自足の生活がしたいという人もポツポツと表れています。また、雑談のときに会杜勤めをしている男性に、「どこまで出世したいですか?」と聞くと「課長がいいところかな。それ以上の管理職になると逆にたいへんだし」と答える人が多くなりました。昔は、サラリーマンでしたら役員が最終ゴールだったのでしょうが、今の人たちは「定年までいることができたら御の字」というほどです。
そうなると、昔よりもより家庭生活を充実させたいと願う人も増えてきたと言えるでしょう。昔は、会社の部下を自宅に連れてくるというご主人もたくさんいましたが、今はそんなことはほとんどないそうです。また、会社側も社員の家族のための芋掘り大会など、家族向けのイベントを行っていましたが、それも少なくなりました。父が何十年も前から言っていた「少子化、核家族化」が本格化し、家族と過ごす時間が増えてきているだけに、伴侶を見つけるのに皆さん慎重になってきていると言えるでしょう。慎重になりすぎたためか、独身のほうが気楽に思われるのか、パートナーを見つけて自分の子孫をつくる人が少なくなっているのは、今や国を挙げての問題となりつつあります。そんな時代に、私どもの会のような存在は、今後ますます必要とされるのではないでしょうか。
ゆくゆく私たちがぶつかる問題は、国際結婚だと思います。父はよく「国際結婚は、相手が日本では探せないから外国で探すというマイナス志向ではなく、言葉や文化をクリアした人たち同土のもっと高いレベルで行うべきものだ」と言っていました。確かに、ポジティブな国際結婚で二つの文化を持った子どもたちが増えていけば、戦争も減っていくかもしれません。現在は、会員の条件に「日本国籍を有する人(永住権も含む)」としていますが※、いずれ直面しなくてはならない問題だと考えています。
今、携帯での出会い系サイトや、コンピュータでマッチングした相手とお見合いするシステムなど、間に人を介さないやり方が多いなかで、私どもの会員さんが増え続けているというのは、「少子化」の流れを背景に、古き良き風習を残した新しい形の仲人さんを認めてくださっている方が増えているのだと思います。
「仲人」を使った言葉に「仲人口」「仲人七嘘」などがありますが、いずれも仲人が縁談をまとめるためにほどよくとりなしていう言葉で、当てにならないことを表しています。けれども、私どもの会において、仲人さんは真実を告げる人であり、会員さんが本音で相談できる相手であり、迷っている方の肩をポンと押してあげる人です。
父が三十五年前に「百年続く」よう作ったシステムを保ちつつ、会員さんたちの信用をさらに重ねていくことによって、仲人についてのこういったことわざが、いつしか辞書から消えてなくなる日が来ることが私の夢です。
※現在では、国籍で入会をお断りすることはありません。